農水省が1年半ぐらい前に、海外にある日本食のレストランで、ちゃんとした日本食を出している店に認証を与えようとしたことがある。
しかし、こんなことをして何の意味があるのだろうか。まったく問題の本質からずれてるし、他の国には、それぞれに根付いた食文化というものがあって、そういうものに偏向されて、ちゃんと伝わらないのが、食文化というものなんだ。
8年ぐらい前にこんなことを日記に書いたことがある。
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「国境があってもなくても文化は融合する」
すべての国の文化は、それだけが単独で発達してきたわけではありません。料理にしろなんにしろ、もろもろの文化はすべて外国の影響をもろにかぶってきたと言えます。
たとえば、今日ではその料理が西洋料理の代名詞になっているフレンチにしても、16世紀には、イタリアへイタリアへと草木がなびくようにイタリア文化への憧憬の時代を得てきていますし、ドイツにしたところで、フランス文化にこれまた手もなくひねられてしまったフリードリッヒ大王の時代のような一時期を経験しています。フランスがフランスらしくその花を咲かせ始めたのは18世紀で、それまでにイタリアの食べものがフランスにずいぶん入ってきていたのです。
このような中で一人中国だけが、その中華思想の厳然たる存在によって、世界に冠たる中国料理を守りつづけているように見えますが、しかし、ここにも、周辺の国々のものを巧みに取り入れて、中国料理を現在のような十全たるものに仕上げてきたことを見逃すわけにはいきません。
もちろん、日本料理の歴史はほとんどすべてが、もとは中国から、あるいは朝鮮半島を経てきたものであり、仏教伝来以前から、おそらく私たちの祖先がこぞって外国のものにうつつをぬかしていた時代があったであろうことは、否定できません。
そして、明治維新。この動乱の時代に当時の日本人は、憧憬と好奇心に裏打ちされて、西洋の文化と文明をしゃぶりつくすように、わがものにしようとしました。
ところが、それにもかかわらず今日の私たち日本人の食生活を見ると、そのなかで大手を振ってまかり通っているものは、19世紀中庸のフランスやイギリスの純粋な料理ではなくて、じつは、巧みに日本化された中国料理と洋食なのです。
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そして、そのために日本食の定義作りをしようとしたが、そんなことは絶対に出来るわけがない。ボクが料理を教えてもらった京料理界の重鎮、瓢亭の高橋さんが、京料理とはなんですか?と問われ、「私の作る料理が京料理です」と答えていたが、それが正解なのだ。うな丼やてんぷらなどは、それぞれに定義付けが出来るけれど、日本食全体を無理やり定義付けしたら、それはまったく抽象的なものになって、定義の意味がなくなってしまうに違いない。
BSEのときもそうだったけど、農水省は天下り先と利権の拡大をはかっている、と言われても仕方がない。
京加茂@おやじ
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