今日は料理の味について。
フレンチやイタリアンについて、ものすごく詳しいわけではないけれど、料理に砂糖などの甘味料はほとんど使わないと聞いている。その代わり、オイルを多用して、素材に甘み(旨み)を加えていく。ただし、使い方を間違えると重い料理になりがちである。
それに比べて、日本料理は、出汁の旨みを利用して料理を美味しくしているように見えているが、じつは砂糖や味醂を多用して、結果的にフレンチやイタリアンのオイルと同じ効果をだしているのである。
「命の鰹節」というが、吸い物系以外の料理では、甘味料の助けがいるのだ。
1000年以上の歴史の中で、これだけ発達してきた日本料理では、今でもお出汁をカツオ節だけに頼りきっていると言っても過言ではないだろう。これは美味しすぎるから他の出汁が発達しなかったというのが一般の定説になっているようだが、「甘味料と一体になることによって」という条件がつくのである。そして、これもオイルと同じように使い方を間違えれば、料理が重くなる上にオイルと違って素材の持つ味がぼやけるという欠点をもっている。何しろ素材の持つ旨みというのは、「滋味」と言われているように、非常に弱いから、甘味料を入れれば、簡単に打ち消すほうに働く。
ボクは、この日本料理が持つ欠点を早くから見つけていたので、「脱!味醂、脱!砂糖」と言うことで、日本料理を少しでも改革できないかと模索してきた。
たとえば、「カフェ・ラテ」。これはコーヒーの苦味をミルクの甘みで中和した飲み物である。昔で言う「コーヒー牛乳」みたいなものであるが、体脂肪が気になる現代人にマッチしたから、たちどころに全国津々浦々まで普及した。そのため、コーヒーに砂糖を入れる必要がなくなったのである。
理屈としてはそれと同じようなことを料理の改革の柱にしたのである。
ところがである。現代人の嗜好は、こと日本料理に関しては、「カフェ・ラテ」の反対に向かい、味醂や砂糖を多用して、やや甘い料理が人気を博しているのである。これが2000年代になってからのはっきりした傾向である。
甘いのは最もわかりやすい美味しさであるから、ボクはこれを「味の幼稚化」と言っている。
民主主義の成れの果てが「衆愚政治」なら、日本料理の世界もこれと同じことが起こっているのかもしれないと思うと、なんだか寂しくなる。
メガネをかければ、なんとなく賢く見えるからおもしろい。
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